つきひざはやる気ないからね

「いや、やる気はあると思いますが・・・」

「私」の、おじいちゃんへ③

 そして私は寝ようとする前、今まで死のうとしてきた、死を考えたことについて本当に後悔しました。後悔しきった。涙は少ししか出なかったけど、だけど一生分泣いたと思います。おじいちゃん、逝くその日まで私のことを考えていてくれて本当にありがとう。そして一度は死のうとして、死を途切れずに考えて、本当にごめん

 

 

 もう、死なないよ・・・。

 

 

 だけど、私のことだから、また生きるのがだるくなったり、死にたいとぼんやり考えることもあるかも知れないな。そしたら、「どんなことがあっても、生きていて良かった」と自分自身が納得できる生き方をしていくよ。今すぐは難しいかも知れないから、少しずつ。

 

 

 そして2013年4月、本当は中学時代の友人と会うためだったけど、空いた時間に祖父に会いたい。会って、話がしたい。強く思った私はまず実家の母親に電話しました。そして祖母が1人待つ家に(本当はいとこが一緒に住んでいますが、帰省で叔父のところへ戻っています)、偶然にも祖父の命日である4月6日に私と、母と、祖母と仏間にいる祖父と・・・「4人」でご飯を食べながら話をしようということになったのです。

 

 

 その前日の2013年4月5日は段々雲行きが怪しくなってきて、NWでも斉田季実治さんが気象について注意とアドバイスを視聴者に伝え続けていた日。母親と一緒にNWを見ながら、「明日おばあちゃんちに行けなくなったらどうしよう?」「その時はその時だよ」なんて話していた。そしてこの日からNWの新たなナビゲーターとなった安田洋祐さんが「祖父母のことを忘れないよう沖縄に行っている」という旨のツイートをされているのを見て、これは私自身のルーツを探る大切な1日になるかもしれない、そうだと面白いな、と思ってわくわくしながらNWを見て、2人でちょっと安心して眠りました。

 

 

 私の周りでは、病気で父方の叔父が亡くなり、その次の次の日に高校時代の友人が(ふさぎこんでいた頃、それでもこの子には初めて会いたいと思えるようになりました)女の子を出産して、「死」と「生」が隣り合わせになっていた。だから祖父が生きていた頃をしっかり受け止め、それを今生き抜いていく礎にしようと・・・。主人にはそのことをきちんと伝え、帰省し、翌日に祖母が待つ母親の実家に帰ることになりました。お弁当とお茶菓子と、少しのお酒を買って。

 

 

 その前に、近所に住んでいる未亡人となった叔母のところへ向かいました。いつも通りおみやげを渡すためだったけど、確実に違うのは叔父はもうこの世にはいないということ。息子と娘である2人のいとこも含め、叔父叔母夫婦には小さい頃から本当にお世話になった。叔父の位牌と写真に手を合わせ、「これから姪としてできることは何でもします」と叔父、叔母、一緒にいた母親に伝えました。叔母は叔父がいないことよりは、入院していた病院に行ったり、葬式の手続きに手を焼いていたりしていたけど、それらが全て終わった時に本当に<一人>になり、死の事実を重く、深く受け止めるのでしょう・・・。だからそれが少しでも和らぐように、伝えたつもりではあります。叔母はユーモアたっぷりに大丈夫って言ってたけど、嬉しそうだったのは忘れられないなあ。