「私」の、おじいちゃんへ④
そこから車で約1時間、小雨の中母親に運転してもらって今度は祖母と祖父の待つ家についた。そしてご飯を食べながら、祖母の昔話では終われない、祖父の姿を知ることになるのです。
祖父と祖母はお見合い結婚しました。まだ恋愛結婚自体指をさされるような時代、2人一緒の家で暮らして初めてお互いの顔を見たのだといいます。その時おじいちゃんはおばあちゃんに「オレオレ、俺の名前読める?」と得意気に聞いてきたようです・・・。確かにおじいちゃんの名前は1回きりでは正確に読めないかもしれません。おばあちゃんは半ばあきれながらも共に家族として一緒に暮らし始めました。祖父と祖母の歴史の前後にあった<戦争>の記憶。匍匐前進しながら一方で山を開墾する日々。じゃがいもの葉にソースをかけて食べる毎日。男女関係なく軍隊の管理の下殴られ、まともな「青春」は送れなかったのだといいます。
そんな生活が続いたある日、改めて祖母は祖父からプロポーズを受けます。「どうか一緒にいて、一緒にごはんを・・・」無口で不器用な祖父が言った、魂から紡がれた言葉。その言葉に「心から安心できて、嫁として腹も決めた」と本当に一緒に暮らす覚悟も決めた祖母。
しかし、それだけではないつながりも確かに存在していました。中学校までで卒業するのが常識だった当時、祖父は農業高校まで進学し、(これは単に戦争で徴兵されるのがイヤで、どう勉強することで回避するか考えていたようです)「身の丈を考えろ」と周囲から注意を受けるようになります。また祖母は商家から嫁いできて、主に服装など外見で(曽祖父の家に小さい頃連れて行ってもらっていましたが、「駄菓子屋やってるのかな?」と分かるくらいのレベル)「これだから商家は・・・もっと一般人らしくしろ!」と・・・。2人は予期せぬ「他者の妬みを買う」ことでも繋がってしまいました。電話帳に同じ名字が延々並ぶ「村社会」でもあったので、そこでより糾弾されるようにもなりましたね。そうして数年、娘である母親が生まれ、息子である叔父が生まれ・・・。
戦後は祖父は国鉄に勤め、祖母は専業主婦として家を支えました。決して裕福な生活ではありませんでしたが、国鉄から物資が給付されるなど、社員制度はちゃっかり利用していたようで、母親は「部活の道具には困らなかった(体育会系)」と言っています。娘は溺愛しよく散歩に連れて行き、同性である息子は静かに育てる・・・一方で仕事はきちんとし過ぎてその影響からか、はたまた反動からか、祖母も母親も叔父もほったらかし。仕事場での兄貴分として仲間と飲みに出かけちゃう事もしょっちゅうあったらしいです。
イヤなことを楽しくかいくぐる、それでも大事と判断したことには根を詰めすぎてしまうのは間違いなくこの祖父の影響でしょう。
それが、あっけなく「死んじゃった」。
私が生きていて色々大変だったり悲しいことはあったけれど、それ以上に悲しいのは、夫を、父親を亡くした祖母、母親、叔父。そして誰よりも無念に感じているのは祖父本人だろうと・・・。
「私」の、おじいちゃんへ③
そして私は寝ようとする前、今まで死のうとしてきた、死を考えたことについて本当に後悔しました。後悔しきった。涙は少ししか出なかったけど、だけど一生分泣いたと思います。おじいちゃん、逝くその日まで私のことを考えていてくれて本当にありがとう。そして一度は死のうとして、死を途切れずに考えて、本当にごめん。
もう、死なないよ・・・。
だけど、私のことだから、また生きるのがだるくなったり、死にたいとぼんやり考えることもあるかも知れないな。そしたら、「どんなことがあっても、生きていて良かった」と自分自身が納得できる生き方をしていくよ。今すぐは難しいかも知れないから、少しずつ。
そして2013年4月、本当は中学時代の友人と会うためだったけど、空いた時間に祖父に会いたい。会って、話がしたい。強く思った私はまず実家の母親に電話しました。そして祖母が1人待つ家に(本当はいとこが一緒に住んでいますが、帰省で叔父のところへ戻っています)、偶然にも祖父の命日である4月6日に私と、母と、祖母と仏間にいる祖父と・・・「4人」でご飯を食べながら話をしようということになったのです。
その前日の2013年4月5日は段々雲行きが怪しくなってきて、NWでも斉田季実治さんが気象について注意とアドバイスを視聴者に伝え続けていた日。母親と一緒にNWを見ながら、「明日おばあちゃんちに行けなくなったらどうしよう?」「その時はその時だよ」なんて話していた。そしてこの日からNWの新たなナビゲーターとなった安田洋祐さんが「祖父母のことを忘れないよう沖縄に行っている」という旨のツイートをされているのを見て、これは私自身のルーツを探る大切な1日になるかもしれない、そうだと面白いな、と思ってわくわくしながらNWを見て、2人でちょっと安心して眠りました。
私の周りでは、病気で父方の叔父が亡くなり、その次の次の日に高校時代の友人が(ふさぎこんでいた頃、それでもこの子には初めて会いたいと思えるようになりました)女の子を出産して、「死」と「生」が隣り合わせになっていた。だから祖父が生きていた頃をしっかり受け止め、それを今生き抜いていく礎にしようと・・・。主人にはそのことをきちんと伝え、帰省し、翌日に祖母が待つ母親の実家に帰ることになりました。お弁当とお茶菓子と、少しのお酒を買って。
その前に、近所に住んでいる未亡人となった叔母のところへ向かいました。いつも通りおみやげを渡すためだったけど、確実に違うのは叔父はもうこの世にはいないということ。息子と娘である2人のいとこも含め、叔父叔母夫婦には小さい頃から本当にお世話になった。叔父の位牌と写真に手を合わせ、「これから姪としてできることは何でもします」と叔父、叔母、一緒にいた母親に伝えました。叔母は叔父がいないことよりは、入院していた病院に行ったり、葬式の手続きに手を焼いていたりしていたけど、それらが全て終わった時に本当に<一人>になり、死の事実を重く、深く受け止めるのでしょう・・・。だからそれが少しでも和らぐように、伝えたつもりではあります。叔母はユーモアたっぷりに大丈夫って言ってたけど、嬉しそうだったのは忘れられないなあ。
「私」の、おじいちゃんへ②
ただ、自分の生き様を完全に諦めた風にもしたくなかったから、何かにしがみつくようにして結婚し、穏やかそうな生活を送っていったのはありますね。
そして自分の周りでも結婚する子が増え、子供を持つ子が増えていった。私は、新しい生命を授かり、育てることにも絶望しかなかった(今は大分和らいできてるんだけど)。そして独身の子であっても、再就職したり、転職したり「働くこと」に喜びを見出している子も多く見かけるようになりました。私はアルバイト自体やバイトの面接すらも上手くいかない。だから幸せそうに育児や仕事をこなす彼女たちに対しては全くの日陰者。結婚しても両親や義両親に対して良い報告が出来ず、
「こんな私なんて、生きてる価値はない」
「何で、神様は私を生かしておくんだ・・・」
とよりうつうつと暮らすようになっていきました。だけど、一度死を考えた時に主人がものすごく泣いたから、これ以上泣かせたくないと思って、ずっと黙って生きてきた。
「これ以上生きていたって、何もいいことはないのに・・・」
そして、2011年3月以降、「死」や「生きる苦しみ、絶望感」に裏打ちされたニュースを目の当たりにするようになってからは、「私には、何の高い志もない。不意の事故で命を奪われた、生きたかった人がいるなら、私がこの命と引き換えに代わりたい」とまで思うようになりました。
「死にながら」生きている状態。仰々しく死は叫べない。しかし生きる理由も見つからない。そんな状態が少なくとも2012年3月までは続いていたことになります。しかし、あることがきっかけでこんな自分も受け容れて、楽しく、強く生き抜いていこう、とかすかながらに思うようになりました(痩せたことやNW24及びNWを見ていること、友人とそれぞれ会うことになったこともきっかけの1つには確実になっています、ありがとう)。
そして急に思いついたのが、事故死した祖父のこと。2歳までどんな事を言っていたのか単純に興味がありました。30年は経っているし、母親の「死」の痛みも和らいでいるだろうと・・・。そして2月に実家に帰った時に母親に聞いてみたのです。「おじいちゃんって、私が生まれた時どんな感じだったの?」って。その瞬間、母親からかすかに放たれた言葉を聞き逃せなかった。
「あー、あんたにとってはいないほうが長かったかもしれないわね。でも、『この子が生まれたからには俺はどんなことも頑張って生きてやるぞ』って・・・」
「私」の、おじいちゃんへ①
私の母方の祖父ですが、私が2歳を迎える前1983年4月6日に亡くなりました。享年53歳。出先での事故死でした。
私は正直4歳までの記憶が殆どないのですが(だから母親に「何度も海連れてったでしょ!覚えてないの?」と言われたりします・・・)祖父が亡くなった日や翌日のことはよく覚えています。家で冷たくなって動かない祖父。取り囲むようにして悲しんでいる祖母、母親、叔父・・・。でも私には事の重大さが分からなかった。また起き上がるんでしょ?って思っていた。次の日には葬式でおじいちゃんの姿がなくなってた。祖母や母親、葬式の手伝いに来ていた親戚にひたすら「おじいちゃんはどこ?」って聞いてまわってました。
返ってきた答えは、「おじいちゃんは、お空の、お星様になったんだよ」です。
今振り返ってみても、子供に死の事実を教えないようにするため、死の事実を受け止めようとする子供をなだめるため・・・に言ったんじゃない、とは思っています。
ただ、「空を見れば会えるのかな」って思っていました。
そんな私の祖父への印象は「あのおじいちゃん」でした。「あの」がつきます。祖父は周りの人とはほとんど口を聞かず、小さな子供の私でも「あのおじいちゃん、喋らないよなあ・・・」と感じて黙ってしまうくらい。だから、祖父が亡くなって、なんとなく話題にもしなくなり、心理的な距離はより離れていき、約30年・・・。
その間私は物理的にも精神的にも「生」と「死」に対して、ゆれて、ブレて、ぐらついていた日々を送っていました。「世の中にはねぇ、生きたくても生きられなかった人がいるんだよ!」と大学時代の先輩に強く言われた時も(その先輩に勉強や生き様に関する愚痴を延々言ってたのもあります)、「私の何を知っててそんなことが言えるの?生きていても、空しいだけじゃないの!」と無言で反発した覚えは確かにありますし、大学卒業して約1年後には、その、「死」寄りの行為も一度しましたし(だから、病院に付き添ってくれた主人と母親には頭が上がりません)。あとは、意識していなくても急に倒れたりしたこともありました(これも主人が病院まで。2分間全く無反応だったらしいです)。
太ってたし、塞ぎこんでいったし、自分の事は全く好きになれなかった。「結婚して、幸せそうでいいなあ」と何人かに言われたこともありますが、私はその時やりたいことが見つけきれず、途方に暮れた末の結婚だったので、半ば「逃げ道」のような感じで捉えていました。
交差点での風景-主人と、友人
そうやってお互い紹介し合っていくら私や主人が良さをアピールしても特に私の友人達はビックリしてしまうだろうと。結婚式も種々の事情からほとんど親族のみで行いました(人を呼んで式自体行うのがめんどくさかったんですよね。ゼクシィとか式場のパンフは主人に丸投げ状態)。そうして6年。
ついさっき、主人と友人が会う機会がありました。
ブログにちょくちょく出てきている英会話教室の友人です。たまたま主人と近所の喫茶店に来ていて、彼女も用事が終わったのでお互いお茶でも飲みながら話をしようじゃないかと。私が一番勉強している時に声をかけてくれて、出会った友人。その直後に勉強でも、周辺の人間関係でも弱り、ぐらつきそうになっていたのを支えた主人。友人は主人の顔が見たいと言っていましたし、主人も友人がどんな人物か分かればお互い安心するだろうと…。私自身は友人と主人が出会い、会話を交わしたらどうなるか単純に楽しみでした。
結果は、大成功!主人は私もそうだし、友人もそうだし、私以外の女の子にも優しいんだなって改めて分かりましたし、友人は主人に話を引き出され、そこから自分の言葉で英会話教室とか、それ以外で私と遊んで楽しい所をどんどん話していって、それが嬉しかったなあ。そして主人は普段は仕事の話を全くしないのですが、それぞれ分野が違う主人と友人の仕事の話が聞けて、刺激的で、でも「仕事人」としての主人の姿が見られて嬉しかった。GW始まったばかりですけど、本当にわくわく以上のことで。
【この日出かけた先で書いてもらった絵。元気が出る言葉をそれぞれ混ぜました】
ありがとう、友人、主人(ネタを提供してくれたという意味でも。ちゃんと許可取って節度は守ってるよー!)人間同士がすれ違う交差点で、確かに繋がるもう1つの絆を見たようでした。今日は突発だったよ!まったねー!
NW英語プロジェクト・一応エピローグ
ふー終わった終わった。
プロジェクト中に間に記事を入れてビックリさせちゃってごめんね。
私の中では一区切りしちゃったって思ったけど、みんなの中ではまだ繋がっている話だもんねえ。ドジ以上のことは今も治んないなあ。ごめんごめん。
楽しんで勉強してくれましたか?
そしてちゃんと見てくれた?
そこの・・・
お父さん、お母さん。
私のネットでの活動は知らないと思う。
(そもそも実家のPC環境は殆どない。母親にいたっては携帯のメールすらおぼつかない)
モノローグやってる時に実家に帰ったのは本当に大きかった。お父さんとはモノローグの4つの質問で繋がれたし、お母さんとは、NWの安田さん初登場の回の前に安田さんの本を読んで、実際に放送分を見れたし。実家に帰って色々あったけど(これはまた別の記事で書けたらと思う)初めての親子の共同作業って気がしたなあ。お父さんともゆっくり話ができて、お母さんには「適度に、頑張れ」って励まされたからなあ。いろんな励ましの言葉、お叱りの言葉をいろんな人からもらったけど、やっぱり実際の家族が言ってくれて初めて自分の実になったというのは大きいなあ。これまでいろんな人に「家族関係がすべての出発点」みたいなことを言われて、何でそんなこと・・・って反発もしたけれど、約30年生きてきて気付けたのは本当に宝物。これからもそうしていきたい。それに良くPC触ったりゲームやってたりしたら「何やってるの?」って怒られたりもしてたけど、今は堂々と「勉強してた」って言えるんだもん。そりゃ怒れないでしょ。これからも、少しだけど連絡は欠かさないつもり。
そして日付変わって木曜日に更新したのは前の前のブログに書いた、速水さんと英会話教室の友達の影響が大きいなあ。速水さんはNW24第1期木曜日のナビゲーター、そして友達と初めて出会ったのは10年前の木曜日のとある授業でなんだよね。ありがたいことに、その子から私に声をかけてくれた。勉強することにも、人にも、物の考え方にも、ひたすらまっさらだったし、前進できた。「勉強なんかしたくない」「勉強しなくちゃ」が「勉強したい」、「勉強する(している)」、になっていって、他の穿った考え方、物の見方が一切入り込む余地がなかった。今でも考え込んだりすることはあるけど(それは大体思い過ごしの場合がほとんどなんだけど)この英語プロジェクトを続けて、発信することで、より、NWに対しても、ブレなくなった。実際会って、お会いして色々話ができたのは本当に嬉しかった。ブログに書いてきた、28人以上の代表。あれ・・・?
そうだ、英語プロジェクトの途中から私のTwitterやブログを見てくれて、英語の使い方も教えてくれた主人へ。「やれやれ、和英はこんな時には全く役立たずだな」とか「俺?俺に英語聞いてもしょうがないだろ」って相変わらずなんだけど、生徒でも先生でもない絶妙な叱咤激励を送り続けていてくれた。本当にありがとう。
ニュースは変わる。四季も移り変わる。人も入れ替わっていく。けどそこから何かを作れて、人とも(意外な場所で)繋がれる・・・この英語プロジェクトではそんなことを学んでいる気がします。気がする、だけでもあれなんで、これからも英会話教室、そして私の英語プロジェクトは可能な限り続けるよ。
というわけで一応英語プロジェクトの話は、ブログではここまで!また、このブログでは別の話をしていこうと思うよ。まだまだ、またまた続く予定なんだよ、まったねー!
NW英語プロジェクト・実践編(やや加筆訂正)
【前段階】
まあまずノートの表紙に名前を書きましょう。恥ずかしくても本名をフルネームで書いたほうがいいと思うよ。昔HNを紙に書いて壁に貼ってたら友達に「○○(本名)ちゃーん、つきひざ(HN)って何ー?」って聞かれた今も葬り去りたい悲しい黒歴史があるから、そういう意味でもオススメしないんだよ!
タイトルはそうだなあ、「NW英語プロジェクト」で。みんな同じ。一緒。一緒に(私は先に始めちゃったから、NW24って書いちゃったけど)。
【ここから本題】
①今日の日付をきちんと書きましょう。
「2013年○月×日(月)」みたいな感じでね。
私は分かりやすいよう曜日は漢字で書いてるけど、あえて英語(「Monday」とか)でも良いと思うなあ。
これは変わらないのでボールペン。
②ここにはナビゲーターの名前をフルネームで書きましょうか。「小室さん」や「山崎さん」ではダメ。何気に失礼だしね。単純に漢字をより多く覚えるため、そして人の氏名をきちんと覚えるためです。
これも基本変わらないのでボールペン。
③には「気になったニュース」を書きましょう。
「あれ?『気になる』ニュースじゃないの?」って思った人へ。
確かに放送前とOA中は「気になるニュース」ですけど、読み返すと過去のことになっちゃうからね。
ここに書くのは公式サイトから抜き出した1文でも、時間がない時は「安倍内閣」や「TPP」だとか、後で読み返して自分で分かる言葉であれば何でも大丈夫。
これも抜き出すのでボールペン。ただし、なにか急に入ってきた時はシャーペンで書き足してもいいかな。
④には③を受けて自分の感じたことをシャーペンで書きましょうね。
ナビゲーターの人や橋本アナがこうコメントした、及び真下アナ、斉田さんがこう伝えたことをそのまま抜き出して書いたのではダメです。ここでは意味ないからねー。めっ。
感想の書き方。ここでは2通りに分かれるよー。それぞれ該当するものを選んでね。
●英語が苦手な人→せめて1文は作ってください。何とか単語、文法を組み合わせてね。間違っていてもいいから。私も間違いだらけだと思うからこっそり教えてくれるといいよ!
●英語が得意な人もしくは英語でも色々しゃべりたい人→気持ちは分かるけど、あえて1~2行でまとめて下さい。自分の気持ちに案外シンプルになるのかもしれないよ!
ここでシャーペンを使う理由は、主に放送後、自分の感じ方、意見が変わったら消しゴムで意見の修正もできるようにするためです。
どうかなー?分かったかなー?見づらいとかあったら言ってねー。あと、これを実際の授業で使いたいとかあったら、コメント欄に理由を添えて書いてね。為末さんの曜日が写りこんじゃってるけど、Twitterでは #nhk25で定期的に発信していくので、これからもよろしくー。
(そしてお礼を言いたい人達がいるけど、それは次で)